久良工務店ー久良大作のブログ

大工ですが、建築以外のことを綴ります。 建築については「木の家をつくる~土に還る家づくり」へどうぞ。

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食べることと排泄すること

生命を維持するためには二つの行為が必要である。
ひとつは栄養分を摂取するための食べるという行為。
ひとつは体内から不要になった毒物を出す排泄という行為。

これらは必ずセットであり、双方のバランスを欠くと死に直結する。その意味において排泄という行為は食べることと全く等しく扱われなくてなならない。仮に、排泄という行為が人目をはばかるべき汚い行為であるとすれば、食べるという行為もそれと同様に人前で大手を振って行うべき行為ではないということになる。テレビのグルメ番組で感じる醜悪さは、ほとんど取り上げられることのない排泄という行為とのアンバランスさから生じるものなのかもしれない。

ひとは日常的に、意識的にあるいは意図的に「捨てる」という行為に対して目を覆う、あるいは隠す。見て見ぬ振りをする。捨てた後は知らない、考えない。物事の思考すべてに関してこのことはあてはまらないか。「つくること」あるいは「摂取すること」ばかりに関心が注がれ、「捨てる」ことの重要性をこれまで思想化してこなかった代償はとてつもなく大きい。

犬ははばからず、食べる時も排泄する時も等しくある。
犬と散歩していて考えた。

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コメント

 食べることと排泄すること。生と死。光と影。
 相反することではあるが、単独では存在しえないもの。片方だけの存在はありえない。
 歴史的には、身分の低い人が影の部分の処理をしてきたのでしょうから、なかなか表にはでないですね。忌み嫌われるものを隠すのは人間の性なのでしょう。

裕福な国は貧しい国に有毒廃棄物を捨てに行くそうです。自国だと投棄に1トンあたり250,000円かかるのに対し、ソマリア沖に投棄すると250円と1/1000で済むという記述がありました。結果、ソマリアの海岸線では数百人規模での死者も出ているとのこと。
我が国の原発で出た核廃棄物の処分を過疎地に押し付けるのと同じ構図です。もはや「捨てる」ことも世界規模で行われている。
ゴミを生んだまさにその地で「捨てる」こと、処理することを考えなくては、いずれ体全体に毒素が廻って滅びることになるでしょう。



こういったことを刮目する努力を怠ってはならないと思います。

 地産地消は食べ物だけでなく、廃棄物にも適応すべきという意見には基本的には賛成。ただ、そこにでてくる弊害、障害すべてを住民全員が受け入れることができるかどうか。
 結局、役割分担という名目で他の土地に持っていくのが、効率はよいでしょう。

 買う国があるから、買われる国があるのか。買われる国があるから、買う国があるのか。どちらかが無くなれば、成立しない構図。
 買われる国にもメリットがあるから受け入れているはず。当然収入があるのは大きい。もしかしたら、これによって何万人という人が救われているかも知れない。確かに、数万人を救うために、数百人を犠牲にしてはいけない。となると、数万人を救うことをあきらめるのか。難しい問題だ。

先進国による不法投棄による利益はそのほとんどが地元の一部の有力者の懐に入り、地元住民はほとんど恩恵をいけていないとのこと。

富めるものと貧しいものとの間に圧倒的ともいえる格差がある前提で結ばれる決めごとに、正当性があるとは決して思えない。

いじめられるものがいるからいじめるものがいる、搾取されるものがいるから搾取するものがいるのだという論理で、殺す側にも一理ありとするのであれば、到底それに組することはできません。

地元の有権者がほとんど搾取するという話は良く聞くし、実際その通りなのでしょう。ほとんど、ということは、少しは住民の役に立ってる可能性はあるということ?単純な話ではないと思います。

殺す側に一理ある、というつもりはありません。絶対的な悪は排除する必要があります。そいういう意味では、いじめや殺人はどのような理由があろうとも認めていけないでしょう。

ただ、搾取はよく分かりません。搾取がなくなると世の中の経済が成り立たなくなります。程度の問題だとは思いますが。。。。。

先進国による後進国への廃棄を止めさせるためには、どちらかが止めればすむこと。そのためには代替案が必要。それによるメリット、デメリットをどのように説明して対応するか、を考える必要がありますね。

「どちらかが止めればすむこと。」なのに止まらない、止められない。結局、廃棄する側に止める気がないということでしょう。このことばは搾取される側に対する言葉であってはならないはずです。先のコメントでも述べたように、両者の間に圧倒的な格差のある「する」側と「される」側を同列において議論することは、決して陥ってはならない罠だと考えます。

尼助丸さんの言うことは正しい。ほとんどの方が賛成されるでしょう。私も賛成します。

当然、絶対的な悪に対しては、無条件にNOという必要があり、絶対許してはいけません。
ただ、相対的な悪、間接的な悪に関しては、逆に言えば、相対的な善、間接的な善も存在するのではないか、と思ってしまいます。私の知らない部分で善が存在するのではないかと。
そういう意味で、NOとはっきり言ってよいのか、躊躇してしまいます。

ブログは個人の意見の表現の場なので、ここまで気にする必要はないですよね。
申し訳ありません。

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