久良工務店ー久良大作のブログ

大工ですが、建築以外のことを綴ります。 建築については「木の家をつくる~土に還る家づくり」へどうぞ。

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大飯原発再稼働差し止め判決(要旨より抜粋)

見事な判決だと思う。福井地方裁判所裁判官-福井英明氏の人間としての良心を見た。できるだけ多くの人に読んでもらいたいと切に願う。(下線は私) 
軍靴の足音が徐々に大きくなってきている。我々は今、ファシズムの真っただ中にいることを自覚しなければならない。

主文
 大飯原発3、4号機を運転してはならない。
(中略)
求められる安全性
 原発の安全性は法的には電気を生み出す一手段である経済活動の自由に属し、憲法上は人格権の中核部分よりも劣位に置かれるべきだ。自然災害や戦争以外で、この根源的な権利が極めて広範に奪われる事態を招く可能性があるのは原発事故以外に想定しにくい。具体的危険性が万が一でもあれば、差し止めが認められるのは当然だ。原子力発電技術の危険性の本質と被害の大きさは、福島原発事故で明らかになった。具体的危険性が万が一でもあるかが判断の対象とされるべきで、福島原発事故後に、この判断を避けることは裁判所に課された最も重要な責務を放棄するのに等しい。
(中略)
国富の喪失
 被告は原発稼働が電力供給の安定性、コストの低減につながると主張するが、多数の人の生存そのものに関わる権利と電気代の高い低いという問題を並べて論じるような議論に加わり、議論の当否を判断すること自体、法的には許されない。原発停止で多額の貿易赤字が出るとしても、豊かな国土に国民が根を下ろして生活している事が国富であり、これを取り戻す事ができなくなる事が国富の喪失だ。
 被告は、原発稼働がCO2(二酸化炭素)削減に資すると主張するが、福島原発事故はわが国始まって以来最大の環境汚染であり、原発の運転継続の根拠とする事は甚だしく筋違いだ。

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スラム化する日本

 今から25年以上前、家が建てるものから買うものになりつつあるなかで、それをショートケーキ住宅と表現したのは建築家の石山修武。バブルがはじまった1986年の本『笑う住宅』を何十年ぶりかに読み返した。「ショートケーキ感覚は今、日本の住宅をおおい尽くし、蔓延している流行病のひとつである。」といい、商品化された住宅が立ち並ぶ新興住宅地の住環境を「それは工業化されたスラムなのだ。」と喝破した。少し長くなるけれども、引用、以下。
 「しかも、このスラムにはある種の住イメージの管理状況が横溢している。百花繚乱のようでいて均質なのだ。住宅地がディズニーランド化している。新興住宅地のすべては珍妙きわまりない商品の集まりだ。庭の樹木、石、草花さえもすべてが商品として流通し消費されている。自然に土地が生み出したモノなど何もない。すべてが移植されている。勿論、家の全体がそうだ。ペットとして生存する動物達もそんな風に見える。庭に飼いならされている犬にも値札が貼付けられている。そんな見方からすれば、この新しいスラムは私たちが近代化のかけ声のもとに排除してきたあの本物のスラムとは全く別物なのだ。あの本物のスラム、バラック住宅が群れをなす環境には貧しさが生み出す必然の自由と言った気配があった。(中略)あれは住まい手による住まい手自身の町づくりでもあった。(中略)今はTVや自動車と同様に各種のカタログを見て買う。町も家も、つまり環境全体が商品として提供され、その一部を買うことになったのだ。しかもその住宅の価格は異常なものだ。 町の全体はそんな商品化されたスラムとして均質化されている。今の日本の住宅、その環境はいわゆる、地域の固有性、歴史性といった自然な概念からは最も遠い存在であると言わねばならないだろう。そしてそこにこそ私達が立ち向かわねばならない問題がある。」
 各々が30年ローンを組んで何千万という大金をつぎ込んででき上がった町並みがスラムであるというのは、なかなか衝撃的だ。それも均質化された、自由を奪われたスラム。そしてそこに住む人々自身はそのことに気づいていないか、うっすらとは気づいてはいても、都合の悪い、嫌な事実には意図的に目を塞いでいる。東京を含む東日本が放射能でかなり汚染されていることに意識的に目をつぶる政府、マスコミ、そしてそこに住む人たち。構図は全く同じだ。日本中どこへ行っても積水ハウス、はるやま、セブンイレブン、ユメタウン、マックスバリュー。日本全体が均質化されている。辺境の地以外、旅の面白さはもはやほとんどない。おまけに震災がれきの広域処理で日本全土を意図的に放射能で均質化しようとする為政者達。これはもはや犯罪。なかなか希望が見えない中で、今後の未来をどう描いてゆけば良いのか途方にくれるけれども、思考停止にだけは陥らぬよう留意。

オスプレイ、原発にまつわる発言、そして山口県知事選挙。

原発事故以降、政府・政治家の言う事をそのまま鵜呑みにしてはいけないという事に、多くの人が気づきはじめた。引き金となった名文句が、枝野の「直ちに人体に影響を及ぼすものではない。」

さて、つぎの政府・政治家のことば。彼らの真意は、こうだ。

「安全性が確認されるまでは飛ばさない」
  安全性を確認した後、速やかに運行する。(安全性が担保されなかったという結論は最初からない)
「脱・原発依存」 
  原発は、発電比率を現在より少し下げて今後も維持する。(依存はしないけれども今後も必要なのです)
「2030年までに原発稼働率0%、15%、20〜25%のどれか」 
  いずれにせよ、最低限2030年まで(後18年)は、原発は維持する。(既存原発は順次稼働させてゆく)

こう言わなくてはならない。

「危険だから日本の上空を飛ぶ事は認めない」
  危険性を判断する権利はこちら側にある。
「反原発」
  「脱」ということばは、過去を不問にしてしまう。
「今すぐ原発ゼロ」
  当たり前の話でしょう。

相手の決めた前提で戦ってはいけない。
だまされてはいけない。

ブログに「山口県知事選挙、7月29日投開票。○○○○○を当選させてはならない」
と書き込むと、公職選挙法違反になるのだろうか?




マッチを買う

 タバコをやめてからライターとは縁がなくなったけれども、いまだマッチは必需品。薪ストーブはもちろん灯油ストーブ、卓上ガスコンロ、我が家のものはいずれもローテク機種のため、点火時には欠かせない。ライターやチャッカマンを使っていた時期もあったが、意外とすぐにガスが切れたり、使い勝手が悪かったりと、いつのころからかマッチを使うようになった。何故そうなったか深く考えたことはないが、ローテクであること、素材が木であること、使ったあとゴミにならないこと、そんなところだろうか。何年間使ったかわからないが、残りが少なくなったので新しいものを買いに行った。1箱198円。中身はおおよそ900本。一日2本使ったとしても1年以上はもつ。

 昨年9月27日から施行されたライター規制。百円ライターとして広く普及している使い捨てライター。子どもの火遊び事故を防ぐため、新たにレバーを重くするなどの対策をとらない従来品が販売禁止となったらしい。一方でオール電化住宅が増えて、コンロはIH、暖房はエアコンとなれば家で火を使うことはなくなる。住宅街では庭で焚き火ということもほぼ不可能だ。結果的に子供からどんどん火というものが遠ざかっている。火を使わない子育てというのはどうなのだろう。火の怖さを知らなければ火の扱い方もわからない。そのまま大人になったこどもは、以降、火とどう関わるのだろう。そのまま火を扱うことなく老後を迎えることになるのだろうか。

 危険だから子供から遠ざけておくというのは、一番安直な方法で、本質的な解決には至らない。物心つかない子供の手の届くところにライターや刃物等の危険なものを置かないのは当然のことだし、それは政府が指導するものではないし、ましてや法律で規制するようなものでもない。物心ついた子供には火というものがどれほど危険なものか、刃物はどのくらい恐ろしいものか、身近なことから体験させてわからせるしかない。ナイフで鉛筆を削ったりリンゴを剥いたり、指のひとつも切るかもしれないが、自分で痛い思いをしたことは一生忘れない。生きてゆく上で、事故や怪我は完全に避けることはできないもの。だとすれば、大切なことは、その、たまにおこる事故やそれに伴う怪我ををできるだけ小さなものにおさえるということだ。言い換えれば、小さな怪我を糧に大きな怪我を防ぐということ。危険に対する感度は、経験によってのみ磨かれるのだと思う。法律でいろいろなものを規制したところで、そのもの自体、あるいはその危険性がなくなる訳では決してない。それらと対峙することになったときの身の処し方こそ子供が学ぶべきものだ。無菌室で純粋培養された生物は外の世界では生きてゆく抵抗力をもたない。暴力団排除条例にも青少年の健全な育成に関する条例にも反対だ。それらの規制の対象は(良い悪いは別として)決してなくならないものであり、とりあえず目に見えなくするだけにすぎないからだ。あるものをないものと錯覚させられた社会は逆にそれらのものに対する抵抗力をなくし、後々今まで以上のダメージを受けることになるだろう。また、危ないもの、汚れたもの、見たくないものが、見た目上一切排除されたデオドラントな社会では、ひとはおそらく正常な精神状態を維持することはできないだろう。ひとはだれしも自らの中にそれらのものを内包する存在であるからだ。

DSCF1946_20120110131243.jpg

誰を守ろうとしているのか。何をまもろうとしているのか。

 ここは地デジの電波が届かない山間の集落のため、同じ集落の人たちは地元のケーブルテレビに加入している。毎月数千円の料金を支払ってまでの必要性を感じないので、必然的にテレビはほとんど見なくなった。3.11の震災の様子はBS(はうつる)でみたが、それ以降のNHKの報道は酷かった。御用学者をかきあつめて原発事故を過小に見せることに躍起になり、結果的に国民に無用の被爆をさせた。NHKはいったい誰を守ろうとしたのか。
 ところが、個人的に見たいドキュメンタリー番組の多くがNHK制作であることも事実。「食の安全 ベラルーシから学ぶこと」という番組がYouTubeにアップされているというのでパソコンでみようとしたのだが、「この動画は、NHKさんによる著作権侵害の申し立てにより削除されました。」という表示。かたや「プロジェクトX」は結構アップされていて、著作権侵害の申し立てはされていない様子。この取捨選択はどういう基準なのか。NHKはこの申し立てで何を守ろうとしているのか。守るべきは国民の命、放射能で汚染された食物から子供の内部被爆を最小限に抑えるための情報提供こそ何よりの使命と認識するのであるならば、前者の番組「食の安全…」こそ広く知らしめるべき番組ではないのか。
 国民にとって本当に大事な情報こそを隠すということについては、NHKの根本的な姿勢は首尾一貫しているということか。公共放送とはいったいどういう意味なのかあわせてNHKにたずねたい。

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